ショートショート:竹本と名乗る男

「お母さんもっとご飯食べたいよぉ・・」

「だめ、夜まで我慢しなさい」

秋元家には1000万という莫大な借金があった。この借金は夫である秋元貴浩が経営していたラーメン店を廃業させてしまったことにより出来てしまった。

「ごめんなぁ、お父さんのせいで・・」貴浩は申し訳無さそうに娘であるアヤの頭を撫でた。

「なんでご飯ないの?」アヤはまだ5歳であった。

アヤはお腹が満たされていないとき、毎回このセリフを貴浩に向かって言った。貴浩は自分の失敗を誤魔化すのが嫌いで、アヤに訊かれる度に正直に答えた。

「お父さんがお店を潰してしまったんだ。それで借金というものが残ってね」

アヤが理解しているかどうかは分からないが、理由を聞くと納得したかのように毎回下を向いて黙り込んだ。

貴浩は借金を背負っているものの、責任感のある真面目な男だった。平日の昼間は工場で働き、それを終えるとその足で飲食店のアルバイトに向かった。休日ももちろんアルバイトに使った。妻の美佐も子育てと仕事を両立した。

2人もまだ35歳だったので、体力があるうちは時間の許す限り働いた。1日でも早く借金を返してアヤにお腹いっぱいご飯を食べさせてやりたかった。

しかしアルバイトの時間が増える分だけ、家族との時間は減っていった。アヤと会話をするのは週に1回ほどだった。

「今日ね。けんた君とたいき君が喧嘩して先生に怒られてた!」

「喧嘩はダメだね。怖くなかった?」

「ぜんぜん大丈夫!」アヤは貴浩と顔を合わせる度に、保育園であったことを熱心に語ってくれた。

そんなある日、竹本と名乗るスーツを着た男性が我が家を訪ねてきた。銀行員だろうか。しかしその割には銀行員らしい生真面目さが伝わってこない。ただ、風格のようなものはひしひしと伝わってくる。竹本は50代前半のように見えた。

「秋元貴浩さんですか?」

「はい、そうですけど」

「お話したいことがありまして、お邪魔してよろしいですか?」

「まぁ、大丈夫です。狭いですけど・・・」どうぞ、どうぞと言いながら、竹本を散らかっているリビングに招き入れた。

「お茶でも飲まれますか?」

「いえいえ、大丈夫です」竹本は両手を振って断った。

よかった。我が家ではお茶も節約して飲んでいるのだ。金欠の原因はいつも予定外の支出だった。

「それでなんですか?」貴浩は竹本の前に座った。

「単刀直入に申しますとね、娘さんをいただけませんか。20億円で」

「え?」この人が今なにを言ったのか貴浩には理解出来なかった。

「20億円払うので娘さんをいただきたいのです」

「なぜですか?」

「秋元アヤさんを世界一の歌姫にしたいのです。アヤさんには素質がある」

素質?なんでそんなことがこの人に分かるのだ。

「竹本さんあなた何者なんですか?名刺はあるんですか」

「あぁ、失礼。慣れていないもので。どうぞ」そう言って竹本は名刺を渡してきた。『シンガードリーム 代表取り締まり役 竹本章』と書いてある。なんだか怪しいな。質問が山ほどあるが、どこから手を付けていいのか分からなかった。

「質問がどうぞ。それとすぐに答えを出せとは言いません。焦らず奥様と相談してください」

「20億なんて本当に用意できるんですか?」

「そう言われると思いまして私名義の通帳を持ってきました」そう言って竹本は通帳を貴浩に見せた。そこにはちょうど20億円があった。しかしだからと言って竹本の言うことがいまいち信用できなかった。

「このお金はなんのお金ですか?はっきり言ってとても怪しいです」

「これはシンガードリームのお金ですよ。真っ白といっても良いです。ただアヤさんをお金でいただくのは真っ黒なので内緒でお願いします」竹本が嘘をついているようには見えなかった。

「竹本さん。お金の話しばかりしていますが、見ず知らずの人にアヤはやれないですよ」

「お金に困っているんですよね。いいじゃないですか。20億円あれば一生働かなずに暮らしていけるんですよ。それにアヤさんには歌姫の素質がある。ただ、この環境では才能が開花することはない。私はそれがもどかしいのです」

「スカウトだと思っていいんですか?」

「すこし違います。アヤさんをいただくのです。いただいた後お父様とお母様はアヤさんに会うことは2度と出来ません」

「そんな・・・」

「だから20億も支払うのです。相応の金額だと私は思うのですが」

相応かどうかなんて分からないだろう。と、貴浩は思った。

竹本が帰った後、妻の美佐にこのことを打ち明けた。美佐は驚いて目を丸くしたがすこし考えて「アヤをあげましょう」と言った。

「私もアヤの才能がこの家で開花することはないと思うわ。良い人生を歩めるかどうかは環境が大事って言うじゃない。私たちはその貰える20億円でのんびり暮らしながらアヤの成長を遠くから見守りましょうよ」

「本当に言ってるのか・・」

「えぇ、それとあなたには分からないと思うけど、子育てと仕事の両立は結構大変なのよ。アヤが熱出した時とかは職場に迷惑かけちゃうし」美佐は20億円を前にして饒舌になっていた。

「美佐がそれほど言うんならそうしようか・・」

貴浩と美佐は20億円という現実味のない金額に目がくらみ、アヤを渡すことにした。

その1ヶ月後、竹本はアヤを引き取りに来た。貴浩と美佐はアヤに向かって「頑張ってね」と言い力強く抱きしめた。その数時間後には秋元家の通帳に20億円という金額が振り込まれた。

「本当に20億円入ってる・・・」貴浩の手は震えていた。

「桁数数え間違えてない?」そう言って美佐は貴浩が持っている通帳を奪い金額を数え始めた。確かに20億円入っていた。

「久しぶりに2人で焼き肉でも行かない?」

「そうだね。久しぶりの贅沢だ。銀座にでも行こう」

「銀座に行ける服装なんか持ってないわ」

「買えばいいじゃないか。20億円あるんだ。多少の贅沢は許されるよ」

「そうね」美佐はそう言って化粧ポーチを開き化粧を直した。

それから20年後・・・。

アヤは25歳になっていた。彼女は東京大学を卒業して、竹本のもとで投資を学んでいた。

竹本は『シンガードリームの代表取り締まり役』ではなかった。あれは真っ赤な嘘で彼の本業は投資家であった。それも総資産が30兆円を超える大富豪である。

竹本は人並み外れた行動力と勝負感のようなものを持っており、投資家の間では有名だった。しかし、投資家という職業はじっと勝負の時を待つ仕事でもあり、竹本のようなエネルギーに満ち溢れた人間はその体力を持て余した。

竹本はある時、子供に投資してみようと思い立った。まだ物心のついてない子供を買い英才教育をほどこすのだ。もしかしたらその子が生涯にわたって竹本に利益をもたらしてくれるかもしれない。

リスクは高かったが、竹本の持て余した財力と体力がそれを可能にした。アヤ以外にも5人の子供に投資した。1人につき20億円。スポーツに励む子。音楽などの芸術に励む子。どの分野で竹本に利益をもたらすのか分からないので、子供たちの好きなように遊ばせた。可能性を潰すようなことはしない。

ただ、勉強だけはどの子にも強制した。それぞれの教科の家庭教師をつけ、無理のない範囲で追い込ませた。その結果、全員が東京大学に入学し卒業した。しかしそれだけだと20億円は回収できないことを竹本は知っていた。

その第一歩が投資を教えることだった。竹本にとってはゲームでしかない。どれだけのお金を注ぎ込みどれだけのリターンがあるか。この考えは竹本の骨の髄まで染み込んでいた。

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