「ショートカットキーを使いこなせる男性どう?」執筆作業を進めながら僕が奈々未に訊いた。「そのくらい出来て普通だよ」奈々未は苦笑いを浮かべて答えた。
僕は付き合ってもいないのに、元カノである奈々未の部屋にパソコンを持って転がり込んでいた。理由はお風呂に入れるのと、温かいご飯が食べれるからであった。
作家を夢見て、東京に出てきたはいいものの全く売れなかった。忍耐力のない僕は貧乏生活に耐えきれず、東京に出てきている唯一の友達であり、元カノである奈々未に連絡をとった。
奈々未は「泊まるのはダメ。0時までに帰るんだったらいいよ」と言って僕を受け入れてくれた。
それからの生活は7時に起きて引っ越しのバイトに向かい、14時まで働いてから奈々未の部屋に帰宅する生活が始まった。迷惑をかけまいと料理は毎回僕が作った。料理にはまっていた時期が1年ほどあり、すること自体に苦しみを感じなかった。そして0時前になると寝るため自宅へ帰宅した。
奈々未が僕を受け入れてくれた理由は2つある思う。
1つは元カレなのでそこまで警戒することもないということだ。僕たちは大学時代に1年ほど付き合っていた。別れた原因はあくまでも推測だが、セックスレスが関係していると思う。しかしそのセックレスのおかげで、今こうやって奈々未の部屋で生活ができていると思うと、なんだか不思議に感じた。
もう1つは単純に奈々未が料理を作らなくていいからだ。奈々未はデザイン会社に務める絵に描いたようなキャリアウーマンだった。帰ってくるのはいつも22時を回っており、翌朝も7時には家を出ているらしい。高校時代はバスケ部に入っていたので、コミュニケーション能力にも長けているのだろう。上司から信頼されそうな人柄を兼ね備えていた。そんな理由で僕たちは、付き合ってもないのに半同棲をしていた。
「次の3連休旅行いこうよ」奈々未が言った。僕はその発言に驚き、書こうとしていた文章が頭から消え去った。
「お金あんま持ってないよ」異性の部屋に転がり込むような大胆な行動は取れるのだが、お金のこととなると消極的だった。
「そんな遠くまで行かないよ。それに日帰りのつもりだから」
「どこ行くの?」僕が訊いた。恥ずかしいことに旅行もあまりしたことがなかった。貧乏とは悲しいものである。
「山梨の『ほったらかし温泉』ってところ。ほらこれ」そう言って奈々未はスマホの画面を見せてた。画面には富士山を眺めながら入れる露天風呂の写真が載っていた。富士山を眺めながら温泉か。最高の気分が味わえるだろうな。
「行こうよ。私1人で行くのもあれだし」
予算も少なく済みそうだったので「分かったよ。僕は3連休のどこでもいいから」と言って、再度パソコンに顔を向けた。しかしパソコンに向かっても、筆が走る気配がまるでなかった。
行動には移していながったが、僕は奈々未のことが好きだった。しかし奈々未に嫌われるとまた貧乏生活に戻ることになるし、なにより奈々未と対等に付き合えるほどの人間力みたいなものがなかった。自分が奈々未より劣っている人間だと思うことで恋愛に対して消極的になり、その感情がそれなりに都合が良かった。
僕たちは自然界で例えると、相利共生のような関係だった。花とハチのように、花はハチに蜜を与えて、そのついでに受粉を手伝ってもらう。ハチは腹を満たし、花は子孫を残せる。お互いがお互いの命を支えているのだ。無論、僕が奈々未に与える利益は健康的な食事だけなのだが。
違いがあるとすれば、花とハチは本能でこのような美しい行動を取っているのだが、僕は本能というよりも理性でこのような行動を取っていた。
僕たちは山梨県の「ほったらかし温泉」という温泉に来ていた。名前の由来はどうやら、湯源が見つかっても、そのままほったらかされていたのでこの名前になったみたいだ。スッタフが何名か働いており、僕の想像とは違った。
「またね」と言って奈々未と別れ、脱衣所で服を脱ぎ、浴室に向かった。山梨駅に到着したとき「富士山ってやっぱり大きいね~」と言いながら眺めていたのだが、露天風呂から眺める富士山もまた絶景だった。寒さを忘れて裸で立ち尽くしていた。
富士山から吹き下ろされる穏やかな冷たい風が僕を現実に戻した。湯船の中には老人がひとり、地蔵のように富士山を眺めていた。「さむ~」と言いながら湯船に浸かると思わず体の奥から声が出た。魂の叫びと言ったらいいのかな。
肉体労働で疲弊している身体を湯船がほぐしてくれている。デスクワークで疲弊している眼を富士山がほぐしてくれている。僕はここに連れてきてくれた奈々未に感謝した。
ボーっと眺めていると、僕の悩んでいることなんてちっぽけに思えた。
「ゆっくりしていきなさい」と言っているような気がした。耳を澄ますと「もっと正直に生きなさい」という言葉が、富士山の方向から聞こえてきた。
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