【短編小説】幸せを噛みしめる

その子を見た瞬間、可愛いとは思わなかったが、愛嬌の良さは人一倍あるように感じた。見たのはほんの一瞬である。上司と僕が魚を捌いている部屋に入ってきて「おはようございま~す」と挨拶して走り去っていった。その子は新入社員だった。

帽子とマスクをしていて顔がよく分からなかったが、目がくるりとしていた。体型はどちらかというとぼっちゃり体型だろうか。もうすぐしたら新入社員の自己紹介があるだろうからその時を楽しみに待つことにした。

僕は魚を捌きながらその子のことを考えた。名前はなんというのだろう。彼氏はいるのかな。いたら嫌ではあるなぁ。自己紹介までにもう一度顔を見ておきたいな。厨房の方を覗くと長井がその子に何かを偉そうに説明していた。おそらく冷蔵庫の温度チェックだろう。雑用仕事だ。その子にやらせないで長井、お前がやれ。

そう思っていると上司から集合がかかった。自己紹介タイムだ。男1人と女2人が緊張の表情を浮かべながら前に並んでいた。マスクを外すとどうかは分からないが、可愛げのある空気を体全体から放っているように見える。

「新入社員のナカタです。今日からよろしくお願いします」その子はどうやらナカタというらしい。それも声がなんと言ったらいいか。話すだけでお花が咲きそうだ。いかにも女の子らしくて平和の象徴のような声だった。戦争をやめましょう、とナカタが演説をすれば間違いなく世界は平和になるだろう。

ナカタの声の余韻にひたっていると、新入社員の自己紹介は終わっていた。ナカタの横顔をボーっと眺めていると、ナカタとは正反対の荒々しい声で「おい、高本!」と、後ろから叫ばれた。どうやら2,3度呼んでいたらしい。

「なにぼーっとしとんねん!新入社員に足マットの水の取り替え方教えとけ」
(ここでの足マットとは靴の裏面を消毒するためのマットです)

「はい、わかりました」ナイスおやじ。この頑固おやじには散々こきを使われているのだが、新入社員との、いや、ナカタとの接点を作ってくれたことは有り難い。

ナカタを見ると洗い物をしていた。長井、お前がやれ。僕は「ふぅ~」と息を吐きナカタに最短距離で近づいた。残り5メートルまで近づいたところでナカタが僕に気づき目があった。ナカタは僕の顔を見た瞬間、少し不安を覚えたようだった。慣れない環境なので緊張しているのだろう。大丈夫だよ、ナカタ。

僕はそう思いながらナカタに言った。「教えることがあるからちょっと付いてきて」恋愛経験の少ない男性にありがちなのが、好意を隠すため素っ気ない態度を取ってしまうことだ。僕もその内の1人だった。

ナカタは「はい」と明るく返事をした。残りの2人は作業から手が離せそうになかったので、ナカタに教え、後はナカタから2人に教えて上げるよう頼むことにした。なに、簡単な仕事だ。問題ない。

その気になればその2人も連れて来ることができたが、ナカタと2人だけの空間を作りたかった。5年ほど女と縁のなかった僕は、久しぶりの感覚に浮足立っていた。

僕がバケツに水を入れその中に除菌洗剤を少し入れた。「こうやって洗剤を作って足マットに入れるんだよ。分かったかい?」と訊くと僕の目をしっかり見て「わかりました」と答えた。

ナカタと横並びでいられることが嬉しかった。2人だけの世界だ。周りにコックはたくさんいたが雑音は消えていた。もし付き合うことが出来たら、同棲をして、こんな感じでキッチンに並んで立つのだろうか。

「先にお風呂入ったら?わたしその間にハンバーグ焼いておくから」

「そんなこと言ったら寂しいじゃないか。それに一緒に作った方が美味しいハンバーグが出来上がるよ。口では上手く説明できないけど、なんだかそんな気がするんだ」

そう言って2人はキッチンで抱き合うのだろうか。僕はその時、ナカタとの幸せを噛み締めていた。

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