夜7時。僕は仕事を終え、スーパーで「今夜は何を食べようか」と迷いながら店内を歩いていた。この時間帯は僕のような、恋人がいない独り身の人間が多いということを、高校時代のアルバイトを通じて知っていた。
どの客もくたびれた顔で、簡単に腹を満たせそうな食材ばかり探している。もちろんその中に僕も含まれる。
毎日自炊はするものの、調理に時間をかけたくなかった。しかし20代半ばで身体を壊していた時期があり、僕の健康に対する意識は、一人暮らしを始めたばかりの女子大生並にはあるにはあった。
とりあえず生食用の柵取りされているサーモンをカゴに入れた。これを刺し身のようにカットし、醤油につけて食べれば白ごはんが進むのだ。洗い物も少ないし、調理時間も短くてすむ。
いけない、グミを買っておかないと。お菓子のストックがないことを思い出し、お菓子コーナーに向かった。
お菓子コーナーでグミを選んでいると、視界の縁に人影が入った。避けようと思いそちらを振り向くと、見覚えのある女性だった。「あっ」とお互い声が漏れ軽く頭を下げた。
その女性の名はナルミだった。高校時代の同級生で隣のクラスというのもあり、休み時間に廊下に出るとよく顔を合わした。よく笑う明るい子で、クラスでも1,2を争うほどの美人だったのでよく覚えている。しかし会話をした記憶はほぼ無く、挨拶を交わしたことがあるような、ないような。
「久しぶり~」ナルミが言った
「うん、久しぶり」声が上手く出ず、ガラガラ声になった。ゴホンと咳払いをして声帯に活を入れた。
「そのグミ美味しいの?」僕が持っているグミを見てナルミが言った。
「うん、弾力があって美味しいんだ」高校時代会話をしたこともないのに、驚くほど自然な会話だった。しかし彼女がどうかは分からないが、僕の心臓は飛び出そうなほど暴れていた。
僕はナルミの友達と仲が良かった。その友達の名前はカナ。仲が良い理由は単にバイト先が同じだったからだ。
カナとは休み時間に顔を合わせると、中身のない会話を頻繁にしていた。その横にはいつもナルミが立っており、僕たちの会話を微笑みながら聞いていた。
僕はそんなナルミにほどほどの好意を持っていた。自分からアタックしてまで付き合いたいとは思わないが、そちらが僕に好意を持っているのならアタックしてみたい。と、いった具合だ。
「ペタグー美味しいよ。食べたことある?」そう言ってナルミは棚に置いてある紫色のパッケージのグミを指差した。
「いや、ないと思う」と答えナルミの顔を見ると、僕に何かを期待するかのように微笑んでいたので、ペタグーとやらを買ってみることにした。
多くの男性がそうであるように、年を重ねるにつれ、新しい物事に対する挑戦心のようなものが日々弱くなっているのを僕は感じていた。グミにしてもそうだし、動画でも似通った内容のものしか観ていない。このままでは思考が狭くなると分かっていながら、いざ新しい物事に挑戦するとなると、なんだか喉の奥に異物のようなものが詰まる感覚に襲われるのであった。
そんなうだつの上がらない僕なのだが、ナルミにおすすめされたペタグーはあっさりと受け入れることが出来た。
「それじゃあ」と言ってナルミと別れた。その後の買い物はライブ直前のバンドマンかのように気が落ち着かず、何を買わないといけないのか考えることができなかった。
自宅に帰り、サーモンを一口サイズにカットし、冷凍ごはんを2分ほど温めた。インスタントの味噌汁にお湯を入れ、その中に追加で乾燥わかめを入れた。
ささっと夕食をたいらげ、僕はペタグーの封を開けた。
一口食べる前にスマホでYouTubeを開き、きまぐれクックの新着動画をタップして場を盛り上げた。普段はなにも考えずグミをパクパク食べているはずなのに、ナルミにおすすめされたペタグーを前にした僕は、まるで今週のジャンプを読む大学生のように胸を高鳴らしていた。
動画の広告が終わったのを見計らい、ペタグーを1つ口に入れた。弾力があり甘すぎない味わいで僕の好みに合っていた。
もう1つ口に入れてからナルミのことを考えた。ナルミは高校を卒業したと同時に子供を授かり、その男と結婚していた。しかし早すぎる結婚は世の中に対する知見が甘いせいか上手くいかないことが多い。ナルミもそんな家庭の1つだった。
そういった人生の汚点というものは、あっという間に広がり、数年前に僕の耳にも入ってきていた。
ナルミの子供か。付き合ってもないのに、グミをおすすめされただけで、僕はナルミとの生活を思い描いていた。血が繋がっていない子供を引き受けることに、なんの抵抗も感じなかった。
仕事終わりは毎日あのスーパーに通おうと思った。しかし欲のままにガツガツと行動することは、恋愛においてマイナスであることを僕は知っていた。人間というものは自分にしか興味がないのだ。だからこそ他人に興味を持ってあげることで反りが合い恋が成就する。女の話を聞く男がモテるというのはこういったロジックだ。ということで、あのスーパーに通うのは週2回とした。
ある日の仕事終わりのスーパー。生鮮食品のコーナーにナルミの後ろ姿が見えた。その瞬間、僕の心臓が「現在まで眠っていました」と言わんばかり早鐘を打った。
ナルミに出会った日から2ヶ月ほど経っていた。あの後から週2回(水曜日と土曜日)スーパーに顔を出してみたものの、ナルミと遭遇することはなかった。
僕の小学生並の忍耐は3週間もしないうちにプツンと切れ、それからは毎日仕事終わりに通ってみたが、ナルミには会えなかった。滞在時間は30分を軽く超え、周りをキョロキョロとするものだから、万引きGメンと思われたかもしれない。もしくは、万引きGメンに万引き犯と思われたかもしれない。
もしかしたら、ナルミは滅多にこのスーパーを利用しないのかもしれない。そう思うと心臓に鈍い痛みが走った。
いや、時間が違うのかもしれない。と思い、一旦自宅に帰りシャワーを浴び、再度スーパーに向かうことも何度か試した。実に時間の無駄だと感じるが、時間を無駄にしても良いと思えることは、ナルミのことが好きだという紛れもない証拠であった。
ナルミの行動を予測して僕は先回りをすることにした。生鮮食品で肉類を選んでいるということは、次に向かうのは流れ的に野菜コーナーだった。
足早に野菜コーナーに向かう最中、店内を走り回っているやんちゃ坊主とぶつかった。「すまん」と言いながら軽く手を上げ、野菜コーナーに急いだ。
なんとなく、僕のいる場所にナルミがやって来るシチュエーションを作りたかった。必要のないプライドだとは思いつつも、都会の小学生にスマホを持たせるぐらいの必要性は感じる。
僕は野菜コーナーに入り、買いもしない野菜を物色した。ナルミは生鮮食品を眺めながらゆっくりとこちらに歩を進めている。いいぞ。そのままこっちに来てくれ。僕はそう思いながらナルミに背を向けた。
コメント