【短編小説】人生の落とし穴

滝本は社会に出るタイミングを見失っていた。20代半ばまでは料理人としてホテルやレストランで修行を積み、将来は地元に洋食レストランを開店することを夢見ていた。しかし多くの人間がどこかしらのタイミングで、人生の落とし穴というものにはまってしまう。滝本はこの落とし穴から抜け出せずにいた。

いや、抜け出せないというよりは、抜け出すのを恐れていた。犯罪者は刑務所を住心地の良いものとし、出所してもその大半が再度犯罪に手を染める。飯も3食用意され、寝床に困ることもないからだ。滝本が犯罪に手を染めたわけではないが、全く同じような状況に身を置いていた。

滝本は25歳の時に脳腫瘍を患った。右目の視力がほとんど失われていることに気づき、焦って病院へ行きMRIをとってもらうと、頭の真ん中にどっしりと腫瘍が居座っていた。幸い悪性の腫瘍でもなく、腕の良い医者が、5時間ほどの手術で綺麗さっぱり取り除いてくれた。

滝本はその当時、たちの悪い自己啓発本を読んでいたためか、右目の視力を失っても全くへこたれていなかった。今ではそういった胡散臭い自己啓発本を読むことはないが、騙されて心が強く保てるのであれば騙されてもいいのかもしれない。読書を続けているとどうしても賢くなってしまう。それがメリットであり、デメリットだろう。

手術を終えた1週間後、なにやら血液内科を名乗る医者が病室にやってきた。脳外科の医者は風格というものが体全体から出ていたが、血液内科の医者はどこか頼りなかった。女医だからだろうか。この女医は身体が細く、肌の血色も悪いのでどちらかというと患者側の人間に見えた。しかしこの女医が今後滝本を病魔から救ってくれるのだ。人は見かけによらないと心に刻んでおきたい。

滝本はその女医に白血病を宣告された。手術から1週間後のことである。脳手術との因果関係は不明だが間違いなく関係しているだろうと滝本は思った。

それからの闘病生活を簡潔に現すのなら、地獄という言葉が相応しいかもしれない。死にたいとは思っていなかったが、ピストルを持った男が襲ってきたら喜んで頭を撃ち抜いてもらっただろう。

9ヶ月の入院生活を送り白血病は寛解した。そしてそれから4年の月日が流れて現在に至る。滝本はボロボロになっていた。右目の視力を失った。知らぬうちに左耳の聴力も失った。股関節は人工股間関節という物に取り替えた。そんな不良品と言っても過言ではない身体なのにも関わらず、痛いところはどこにもなかった。

社会に出たいという気持ちと、痛いところがあれば社会に出なくて済むのに、という矛盾した気持ちを滝本は抱えていた。結局人間は現状を好む生き物なのだ。ならば腹をくくって、現状で生き延びる術を身に着けたいものである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました